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「おせっかいが無くなったら、うちじゃなくなる」

堀川洋幸さん ミロク製作所  http://www.miroku-jp.com

 全国で唯一、猟銃を作っている会社が高知県の南国市にあります。明治26年 (1893年) 、猟銃の生産に始まったミロク製作所のモノづくり。金属加工、彫刻、木工、組立、調整などの複合技術の結晶が、今や高級自動車のハンドルや工作機械までいろいろな分野で花開いています。高知から世界へとグローバルに展開するミロクに興味を持ち、入社した常務の堀川洋幸さん。きっかけは昭和48年、正月休みで帰省したときのことでした。

―ミロク製作所に入社しようと思ったきっかけは何ですか? 堀川さん ―出身は高知県ですが大学は関西で、大阪で就職し、1年間勤めていました。正月休みで高知に帰ったとき、岡豊山に登ったんですが、そこから見下ろすと田んぼの真ん中に大きな工場がドーンとあって、屋根に大きく"ミロク"と書いてあったんです。びっくりしました。一緒にいた友人に聞いたら「ミロクも知らんのか」とバカにされて。当時、上場している会社がほとんどなかった高知ではとても有名だったんですが、私は「聞いたことはあるな」くらいで、あまり知らなかったんですよね。ミロク製作所はもともと工場が市内にあったんですが、昭和45年に水害で製品が全て浸かってしまい、ちょうど移転したところだったんです。昭和48年のことです。
 我々の世代は銃や刀剣にあこがれもあったりして、「工場を見せてほしい」とすぐ電話しました。それがきっかけですね。そこでたまたま社長の井戸千代亀さんにお会いさせていただけたんです。社長室で面接みたいなもんを受けて、「よっしゃ、やとうちゃる」と。試験も何もなくて即決で決めてもらいました (笑) 。そんな時代です。 ―猟銃作り、というと特殊技術が必要なイメージがありますが、入社する前はどのような分野で学ばれてきましたか? 堀川さん ―大学は工学部の金属工学でした。ものづくり自体には非常に関心がありましたし、工場に入っても、違和感はありませんでしたね。地味な工場ですからね。いわゆる電子製品や電機製品といった近代的なにおいがしない工場です。それが好きなんです。小さい頃の記憶で、昔はポンプを回すような発動機なんかがあって、そういうので結構遊んだんですけど、油のにおいとかが好きなんです。たとえ油でいっぱい手が汚れても何の気にもならない、そういう感覚がもともとありました。 ―入社して最初の配属先はどちらですか? 堀川さん ―最初は調達部門です。資材の部品や設備など、外から購入するものは全てです。買うといってもいわゆる市販品ではなく銃の部品なんかが多いわけですから、しょっちゅう取引先の工場に行くんです。加工の工程なども全て頭に入れて。外の工場を見に行くような感じですね。そこが26年と長かったんですが、あるとき社達が出たんです。みんなが私の顔を見ては、なんか雰囲気がおかしいなと思っていたら、製造部だったんです。しかも部門長へ。いきなり、どーんと。非常に驚きました。いっきに部下が250人くらいになりましてね。まず、全員の名前を一生懸命覚えました。 ―それだけの人数を覚えるのは大変ですね。工場で働くみなさんとはコミュニケーションをよくとられていましたか? 堀川さん ―そうですね。すみずみまで歩きましたね。ずーっと毎日。最初は現場に行くと、私が知らないと思って職人さんから「こんなんなったんですけど、これ、どうしたらいいですか?」と意地悪く質問されたりしていました。どんな反応するかと思って聞いてきてたんですよね。逆に私が説明を受けるようにしました。知らないことは恥ずかしいことではないですから。
 職人さんはあまりしゃべらないし、怖い感じもするかもしれません。でも、いろいろ話しているうちに、ふと笑ったりすると普段の顔と全然違ったりして。そこでわかりあう、みたいなのがありますね。 ―今回も、職人さんにお話をお伺いしたいなと思っていたんですけど・・・。 堀川さん ―インタビューしても言葉を引っ張りだすのは難しいと思いますよ (笑) 。我々が聞いてもすっとは出てこない。技能功労賞といったようなもので、いろいろ表彰していただくのですが、そういう人はこばむことも多い。会社が推薦させてくれと言っても、「そんなもんいらん」と。何回もありましたよ。 ―工場で働く方は長く勤められているイメージがありますが、途中で辞められたりする方もいらっしゃるんでしょうか? 堀川さん ―いえ、みなさん長く勤めています。多くが終身ですよ。定年退職者がほとんどで、若くて退職する人は少ないです。もし辞めても帰って来る人もいます。外の世界を見てきたら、やっぱり帰ってきたいと思うんですかね。 ―じゃあ、本当に職人さんは"熟練の技"をお持ちなんですね。 堀川さん ―そうですね。ものすごい熟練の職人がいたんですけど、その人を見ていると動作がゆっくりなんですよ。でも、1日にすごい量をさばく。本当に熟練になると、動きに無駄がなくてせかせかしていないんですね。その域に達するには時間がかかりますし、そうはなれない人もいます。 ―御社で作る猟銃の魅力は何でしょうか? 堀川さん ―私どもの銃は上下銃が一番代表的です。命中性、堅牢性、安全性、芸術性、そして引き金のフィーリングの部分をものすごく大事にしています。単に"引ける"のではなく、シャープに切れ味よく引ける。それから操作感、バランス。銃というのは重くてもバランスが良ければ軽く感じるんですよ。そして銃身とフレームが結合する、この"あわせ"の部分。一番職人技のいる部分ですが、調整が難しく、このように複雑な組み合わせは世界でもほとんど例がありません。私は世界の上下銃でも名銃の一つだと思っています。
 今の時代、手作りではなかなか儲けが少ないですが、その手作りの部分をなくすわけにはいきません。時代の変遷で低価格志向が進み、海外では通常の工業製品のように組み立ててしまうような銃がたくさんあります。だからこそ、当社の上下銃のようなものが求められているんです。「製品の味」というかね。 ―銃の彫刻の部分はまさに芸術ですね。彫刻部分は手作業ですか? 堀川さん ―全て手作業の場合もありますが、すごく時間がかかるので、彫刻は手作業の部分と、ローラーやエッチング、それにレーザーなどの組み合わせでやっています。実は彫刻はイタリアが一番すばらしいんですよ。社内でも高度な彫刻ができる人はいますが、カスタム銃だとイタリアに外注することもあります。彫刻家の名前が入り、それが値打ちになって非常に高価になる場合もあります。イタリアの銃には700万円や800万円くらいするものもありますが、それは資産価値が出るので財産になります。子孫に伝えていって、さらに資産価値があがる場合もありますよ。 ―全国で唯一、猟銃メーカーとして残った理由は何だと思われますか? 堀川さん ―私が入社した当時は、日本でも銃砲メーカーは13~14社あったと思います。当社が残ったのは、アメリカのブローニング社と提携できたことが一番大きいと思います。アメリカの三大メーカーの一つで、「価格は高くても品質の良いものを」という層をねらっています。そことマッチした、ということがあって今までやってこられたかな、という思いはありますね。
 ただ、これだけ円高が進むとお客様がそれでも買ってくれるだろうか、という気持ちはありますね。今までは少々高くても買ってくれましたが、これからは生産効率を上げていかないと戦えません。信念を持ってやる職人技の世界と、効率化の部分とのコントロールが難しいですね。職人には効率よりも「こうじゃないといかん」という、信念みたいなものがあります。一般的な工業製品と同じようにきちっとタクトタイムを守ってできる工程も多いし、そこは教育すればそんなに時間がかからずにできるようになりますが、"あわせ"のところはそうはいかない。"あわせ"の部分だけは守りたいと思っても、組織の中でその職人だけが、信念を持ったままでいてくれるようにするのは難しいですよ。どうにか職人技の部分は残して、お客様が手に取ったときに"あわせ"の部分やフィーリングなどを変わりなく感じて認めていただける・・・そんなものを作り続けていきたいと思っています。 ―なぜ、高知県だったんでしょう? 堀川さん ―土佐の鍛冶技術の伝統の中で育った初代社長である弥勒武吉の卓越した技術力と発想が基本にあります。そして用意周到に、その抜きん出た力をブローニング社に認めさせた2代目社長の井戸千代亀の経営手腕がうまく組み合わさって、今日のミロクの基礎ができたんです。
 弥勒武吉は偉大な職人でした。気に入らない製品が出来ると、バイスに銃をタタキつけて壊してしまう。経営が苦しくても量より品質を徹底的に追求する。そんな人間性をブローニング社が見抜いたのかも知れません。
 また、そんな逸材を育んだ高知の地域性がブローニングと結びついたとも言えるんです。ブローニングの本社はモーガンという山奥にあるんですが、ミロクも四国山脈で囲まれた、いわゆる工業先進化に遅れた僻地でした。今でもグループ会社がある山奥の梼原工場に行くと、彼らは「すごく好きだ」って言いますね。ある程度、隔離された環境の中で、純朴に頑なまでに品質を守る。そんな"におい"がしたんではないでしょうか。
 あと、高知は"おせっかい"ですね。海外はバシッと分かれていて、人の領分には踏み込まない。開発とマーケティングが並んでいても注意しあったりせず、不思議なくらいに線引きする。そんな真似をしても彼らは管理能力が優れているので負けますよ。おせっかいは、やくと一見忙しくなるし、無駄が多くなるような気がしますが、わかっていて言わないのは、かえってものすごく大きな無駄につながることがあるんです。やっぱりおせっかいかもわからんけど、人のおかしいところもすぐ注意するし、気がついたら言ってあげる。高知というか日本独特のものだと思うんです。「それが無くなったらうちじゃなくなる。無くさんようにしような」と、ずっと言い続けていますよ。


掲載日:2012年3月26日 取材者:Y・M