インタビュー

株式会社白山石川工場(石川県羽咋郡志賀町)

会社のご紹介
株式会社白山の石川工場は北陸・能登半島の中間地点、石川県羽咋郡志賀町に所在しています。昨年の元旦、能登半島を震源とする大きな地震が発生し(令和6年能登半島地震)、輪島市と志賀町で震度7を記録しました。同社石川工場も強い揺れに襲われ、いろいろな被害に見舞われましたが、人的被害はなく、とても速いスピードで工場の復旧を果たされたそうです。過去の経験からBCP(事業継続計画)を策定し社内で共通認識をもっていたことが有効に機能し、緊急時の助けになったとお聞きし、訪問・取材させていただきました。
会社名 株式会社白山(本社:石川県金沢市)
創業 昭和22年10月
資本金 1億円
従業員 131名(2024年4月現在)
事業内容 通信及び電力に関する接続用品の開発・製造・販売 光通信関連製品の開発・製造・販売など
──能登半島はこれまで何度も強い地震に見舞われていますよね
元旦に発生した「令和6年能登半島地震」はマグニチュード7.6、最大震度7を記録した地震ですが、半年ほど前のゴールデンウィーク(令和5年5月5日)にも強い地震が発生、マグニチュード6.5、震度6強を観測していました。過去に遡ってみましても、2007年、1993年とマグニチュード6クラスの地震が発生していた地域です。ゴールデンウィークに発生した地震も十分大きく、これが本震だと思っていましたし、これよりも大きい揺れに襲われるとは想像もしていませんでした。
──BCP(事業継続計画)を事前に作られていたのですね
はい、当社ではBCPを策定していまして、2007年の巨大地震で被害が発生し、BCP策定の必要性を感じたことがきっかけです。また、被害を受けた設備、例えばガラス製のパーティションはアクリル製に変えて、万が一、倒れても粉砕しない形で安全を確保するなど、今後に備える対策も執っていました。ただ、忙しい日々が続く中でBCPの策定はどうしても後回しにしてしまい、できあがったのは随分時間が経過してからでした。重たい腰を起こしたのは、損害保険会社の支援があったからで、計画策定の支援を受けて、まずは簡単なものでもいいから策定してみようと挑戦したのが最初です。できあがったBCPは定期的に見直していますが、量・ボリュームを増やすのではなく、緊急時にすぐに使えるようにコンパクトな形で更新していくことにしています。
──地震発生当初の状況をお聞かせ下さい
元旦の夕方に巨大地震が発生しましたが、当時、工場内に社員はいませんでした。近隣の自宅にいる社員もいれば、遠方、例えば埼玉の自宅に帰省していた社員もいましたから、広い地域に社員が散らばっている状況です。当社は緊急事態が発生した場合に自動的に安否を確認するシステムを備えていて、巨大地震だったこともあって発生と同時にシステムから全社員に対して安否確認のメールやアプリによる通知が発出されました。メールやアプリの通知が届いた社員は自分自身のことはもちろん、家族の安全や家屋の被害状況を確認した上でシステムから回答する流れになるのですが、当時は通信状況が悪いこともあって、メールだけでなく電話も使って確認作業を進め、社員や家族の安全を全て確認できたのは1月3日でした。地震発生後すぐに当社社長から「社員の安全が第一、生活基盤の確保に努めるように」とのメッセージが発せられました。社長は繰り返し言っているのですが、生活再建が第一で、人が一番大事で、人が全てを再生させると社員に伝えています。
──被害の状況を教えてください
元旦に発生したわけですが、近隣に居住している社員が翌日1月2日工場に入り、一通り確認するなかで稼働している機器があったので、通電していることが分かりました。一安心しつつも安全が確認できるまでその他の機械設備を起動させることはしませんでした。逆に水道は断水していました。工場や倉庫など各建物内を見てみると、天井や壁のパネル崩落箇所が多く、事務棟では書庫の転倒やダクト配管の落下、締まっていたはずの窓ガラスが開いて書類が飛散するなどの被害が見受けられました。工場棟は天井パネルが落下していましたが、製造設備は転倒することなく持ち堪えていました。ただ、よく見てみると設備の下には本来あるべきではないものが挟まっていましたので、製造設備は飛び跳ねるように浮き沈みを繰り返し、浮いた瞬間に物が滑り込んだんだろうな、と想像しました。倒れそうでなんとか倒れなかった状況だったわけです。また、出荷前の一部製品についても荷崩れが発生していました。


──復旧の取り組みはどのようにされましたか
BCPを基本に、現場の状況を見ながら臨機応変に対応しました。まずは、工場内建屋の修繕に向けて1月2日建設会社に連絡を取り、何とか数日中には現場確認を行ってもらい1月10日には、早速修繕が始まりました。修繕には時間が掛かると思いましたし、その間、工場を完全に停めるわけにはいきませんから、いろいろと検討していたところ、従業員側からも何とか操業を続けようという声も挙がってきたこともあって、苦肉の策ではありますが、発災前に生産していた仕掛品を使って完成品に仕上げる作業を、休憩室など本来は製造に使っていない部屋に必要な設備を移動して作りはじめました。仕掛品を完成させる作業ですから、それほど多く作ることはできませんでした。また、BCPに従って埼玉工場へ金型を移送して代替生産も行いました。
工場が復旧するまでのご苦労をお教え下さい
工場や設備の復旧を少しでも早く進めようと、社員一丸となって取り組んできたわけですが、インフラとしての課題であった断水対応についても、いろいろと考え、近隣の小川から水を汲んで持ってくることを考えましたし、井戸を掘ることも考えていたのですが、そんな時に東日本大震災で被災された経験のある取引先様よりご連絡をいただいて、当時使った大型タンクがあるので、よければ使って欲しいという有り難いお申し出をいただきました。水の確保に困っていた時でしたから、お申し出はとても有り難かったです。届いたタンクに給水車から水を移し替え、何とか工場内の水を確保することができました。まさに経験したからこそ分かることだと思いましたね。断水については、2月上旬に復旧しました。また、製造設備に係る修繕は2月中旬には完成し、このタイミングで工場は通常操業に戻りました。天井など建物の修繕を含め、全ての修繕が完了したのは3月下旬のことです。
──三ヶ月という短期間で修繕できたのですね
BCPに従って社員の安全・無事を早急に確認できたことが一番良かったと思います。また、弊社社長は常に社員と家族を守ることが第一であることを表明していましたし、緊急時だからこそ、あらゆる情報を風通し良く社内共有していたことが各社員の行動に反映され、結果的には早い復旧に繋がったと思います。また、取引先様をはじめ修繕を担当して頂いた建設会社様、地元・志賀町役場様など人の繋がりでいろいろなことが助けられたことも非常に有り難かったです。国内外の取引先様に対しては、弊社の被害状況と復旧に関する情報などを丁寧に発信していました。おかげさまで信頼関係を維持・継続することができ、復旧後も取引が続いています。
──今回のご経験を、今後どのように活かしますか
安否確認については、BCPに規定していたおかげで早急に確認することができました。全体的には想定していなかったことが多く発生し、臨機応変に考え対応しましたが、BCPを基本として社内で議論・検討することで迅速に対応できたと思います。また、水の確保や周辺道路状況など(道路混雑情報や段差等の障害が発生していた箇所、逆に通行できた道路などの情報)を記録して引き継いでいくべき事項も多くありますから、BCPに追記することにしました。弊社社長が最初に表明した「社員家族を守ることが第一」と表明したことは社員にとって心強いメッセージとなったはずですし、復旧させようという気持ちがそれぞれの中に生まれたと思います。そして、社員だけでなくパート従業員の方も含め、弊社の財産である「人」が最大限力を発揮してくれたと思います。そして、各方面の「人」に助けられたことも忘れてはいけないことです。これからも連携させていただきながら事業を継続させて行けたらと思います。
(2025年3月13日掲載)
〒925-0375 石川県羽咋郡志賀町若葉台47番11号
インタビューを終えて
- 巨大地震によって大きな被害を受けた能登半島、現在も復興に向けた取組が続いています。お邪魔する道中に見た景色として、公費解体を待つ家屋、解体が終わって新しい家屋を建てようとしているところも見受けられ、時間の経過を感じました。インタビューさせていただいて改めて感じたことは、BCPを策定されていたことが多くの場面で有効に機能したのではないかということです。
- 復旧が遅くなればなるほど企業経営に大きな打撃を与えるかもしれません。例えば、災害で操業が止まれば売上が立たず入ってくるお金が止まります。逆に、給与や各種支払は続きますから、手持資金が大きく減少することが考えられます。また、長期間操業が止まっても何とか持ちこたえ、事業再開できた場合であっても、それまでお付き合いのあった取引先様が他社から仕入れるようになってしまって売上が減少するかもしれません。どちらの例も会社経営に大きなダメージを与える可能性があるのではないでしょうか。
- BCPや事業継続力強化計画を策定していれば万能ということではなく、計画作りを通じていろいろなパターンを考えてみる、想定しておくことが実際の危機的状況を脱出するヒントになると思いました。