きっかけは、お遍路さんとのご縁から。
井上智博さん 井上誠耕園 https://www.inoueseikoen.co.jp/brand/
100年ほど前にオリーブの植裁がはじまった香川県小豆島。そんな瀬戸内海に浮かぶ島の斜面に、オリーブや柑橘製品の製造・通信販売を手がける井上誠耕園の農園が広がっています。「小豆島に根ざしたブランドづくり」を心がけている園主、井上智博さんのお話を伺ってきました。―小豆島でのオリーブの歴史は古いようですが、こちらの農園でも、ずっとオリーブを栽培されてきたのですか? 井上さん ―うちは代々、宮大工をしていたようですが、僕のじいさんが「この地域の南向きの斜面を利用せずして、この地域の繁栄はない。」と言いだして、大工仕事のかたわら開墾を始めたんです。農業のメッカにすると言えども、この土地にあった農作物を試行錯誤していたみたいですね。昭和15年、人づてにみかんの苗木を1本手に入れ、そこから、みかんを栽培するようになります。そして昭和21年からオリーブも栽培するように。 ―オリーブの収穫は、全て手摘みとのことですが? 井上さん ―イタリアやスペインのオリーブ園を視察したとき、「量では絶対勝てない」と思ったんです。もう、すごい広大な土地にオリーブ農園があって。日本人と農業のスタイルが違うんだな、と思いましたね。人柄もラテン系でおおらかで。かたや日本人は、非常に繊細で丁寧で勤勉。「ここが売りだろう」と。量では絶対に勝てないから、品質で勝負しようと思ったんです。
オリーブオイルは酸化値がいかに低いか、ということが大きなポイントになるのですが、オリーブの実に傷がつくと酸化値が高くなるんです。そこで手摘みにこだわるようになりました。あと、オリーブは熟度によって、いろいろな味をつくれるんですよ。人の手を介することで、「今年は雨が多かったから少し早摘みをして、いつものスパイシー状態を保とう」ということができるようになるわけです。 ―品種によってオリーブオイルの味は違うものなのですか? 井上さん ―品種もそうですが、熟度によっても違います。海外では、大抵は収穫時期を見定めて一気に収穫しますが、僕らは何度も何度も農園を歩きながら、何度も何度も収穫するんですよ。オリーブは太陽の申し子と言われるくらい太陽の光が好きで、太陽の光を浴びるところから実が熟していきます。 ―今は化粧品もつくられているようですね? 井上さん ―僕は霜焼けが酷かったので、おふくろがオリーブオイルを塗ってくれていたんです。今でこそオリーブオイルはブームになっていますが、子供の頃から当たり前のように家にあったので、オリーブオイルは手足にぺたぺた塗るもんやと思っていました。そんなことがあって、料理用オリーブオイルから化粧品まで売るようになったんですね。 ―パッケージが素敵ですよね。 井上さん ―デザインは大切だと思ったので、パッケージを変えたんです。消費者の方々が何をもって選ぶのか、というのは大事ですよね。どんなに良いものをつくっても、商品は無言じゃないですか。やっぱり、思いをデザインに込めて表現しないと、手にとってもらえないでしょ。
うちには、「みかん」と「食用オリーブ」と「化粧品オリーブ」がありますが、「みかん」と「食用オリーブ」は温かい農作物の土のようなイメージ。一方で「化粧品オリーブ」は少し洗練されたイメージが欲しい。どっちつかずになっても困るし、同時に融合させたいようにも思う。「農家が頑張っていて、温かくて、優しくて・・・そんななかに品格のようなものもある」。このイメージだと思って自分でやろうとしていたら、なかなかうまくいかず、デザイナーに相談したら「これだ!」というのが出てきたんです。 ―化粧品は女性で、農作業は男性のイメージがありますが。 井上さん ―ありますね。現状では、農園は男性中心、加工や販売は女性中心。うちは女性がいないと成り立たない。農園を老若男女が一緒にできるようにならんかなと思いますね。収穫や選別は女性でもできますが、年間を通した農園の経営だけで考えると、女性を1年間雇うのは難しい。それは体力的な問題で。けどね、このところ女性が農業に参入したがるようになっているから、上手に仕組みが作れないかなと思っているところですね。 ―通信販売を始められたのは? 井上さん ―僕は島を出て神戸の市場で働いていました。「これからの農家は自分でつくった農作物を自分で売らないかん。」と思い始めていた頃、家に帰ってみると、おふくろが送り状をペラペラめくっているんです。「それなんや?」と聞いたら、お遍路さんにみかんをあげたら送って欲しいと頼まれるようになったと言うんです。
小豆島には四国八十八ヶ所のミニチュアみたいな島八十八ヵ所があって、家の前にお遍路宿があったんです。そこのお風呂が壊れてお遍路さんがお風呂に入りに来ていたと。人懐こくて話をするのが好きな親父が「どっから来なはったんや」とみかんをお出ししたら、「おいしい!」と喜ばれたので持って帰っていただいたんです。小豆島のお遍路さんは山陰地方の人が多いのですが、向こうにはみかんがあまり無いそうで。そうしたら、持って帰った先からお礼の手紙が届いて「もう一度食べたいので送ってもらえませんか」と。お遍路さんがきかっけで人のつながりができ始めていたんです。
「そら面白い!」と翌年、名簿宛に手紙を書きました。価格を決めて売りたいと思っていますがいかがですか?と。280件くらい送ったら、ほぼ100パーセントの返事が帰ってきたんです。自宅だけでなく、東京や大阪に住む息子や孫にも送りたい。送ったら、送った先からも注文が来るようになりました。今で言う、通販の感触をここで少し掴んで、それをオリーブ製品に応用していったんです。 ―井上さんは小豆島を一度出たけれども、戻ってこられたんですよね? 井上さん ―僕は典型的なガキ大将で、家の手伝いなんか全くしませんし、勉強が嫌いで高校を出る頃に「こんなド田舎、嫌や」と島を出たんです。大阪の専門学校を卒業しても、ろくに就職活動もせず、親父の薦めで神戸の市場で青果物の仲卸しをしていました。
何年か勤めていましたが、あるときお盆に帰省して盆踊りに行ったら、高校で一番仲が良かった同級生が出ていたんです。しかも2人も、同じ法被を着て。大学を出た後、島の会社に就職していたんですね。それがめちゃめちゃ楽しそうに踊ってるんです。久しぶりに感じる自分のふるさとの夏祭り、自分が小さい頃の思い出もよみがえってきて。
神戸に帰っても夏祭りのことを思い出すわけ。神戸は綺麗な町や、確かに。でも、「やっぱり島がええ。あいつら楽しそうやったな。」と。帰りたいと思ったら恋しゅうなってきて、そこから何ヶ月かして帰ってきたんです。
小豆島で仕事をしたいとか、家を継ぎたいとか全くない。ただ小豆島へ、故郷へ帰りたい。夏祭りの1点だけ。だから、ああいう地元の祭りは大事やね。島を活性化させるためには大人が自慢せないかん。「こんなええ島ないど」と言ってまわれ、と周りにも言い聞かせています。必ず単純なやつがおるから。僕がその1人。ほんまに(笑)。
小豆島の嫌なところもあります。でも、良いことを言い続けていると本当に良くなっていくし、嫌なところを塗り替える、それ以上の良いところをつくらないかん。「あるはずや」と思い始めたらいろいろなことが発想できる気がするんです。「こんな地域はダメ」と、シャットアウトしてしまうと、脳みそが動かなくなってしまう。 ―将来、小豆島をこんなふうにしたいという思いがおありですか? 井上さん ―「大地を有効活用させてもらって、この地域をずっと繁栄させるべきや」というじいさんの言葉を引き継いでいきたい。昔から母なる大地を耕させてもらっているのに、時代とともに「農業は食えない」と放棄していく。それは悲しいことなので再生していきたいんです。昔から触っていないところを敢えて切り開く必要はないと思っています。再生です。山を開墾させるということは、大変なことだったと思うんですよ。その労働に報いたいという気持ちもあるし、休耕地を整備することがひとつの景観保全にもなるのではないかと。
わずかな時間でも園地に寄っていただいて、心地いい時間を過ごしてもらいたいですね。小豆島が観光立島である姿が望ましいと思っているんです。お遍路さんを観光客につなげるのは不謹慎かもしれませんが、家が生きてこられたのもお遍路さんがいたから、オリーブやピクルスが売れる土壌があったのは小豆島に観光客が来てくれたから。当時、オリーブは島外では全く相手にされておらず、少なからず「オリーブの島」という触れ込みがあったので、まだ完璧ではないオリーブの製品でも、観光客のおかげで販売の緒になったわけです。ですから、恩返しをする意味でも農業の観点から観光を考えたい。観光と農業をしっかりとした産業にして、次の世代の子供達に託してやりたいなと思います。 掲載日:2011年10月18日 取材者:S・Y