「食への使命感」を受け継ぐ
佐々木将司さん ぶらうん

清流・四万十川を有し、緑生い茂る山林、太平洋の荒波に囲まれた、自然豊かな高知県四万十町では、米や野菜などの農業や、養鶏や養豚などの畜産業が盛んに行われています。
そんな四万十町で、地元に根ざし、お客さまのニーズに応える中で生まれた「コロンブスの茶卵(ちゃまご)」を2012年1月オープンの「Cocco Rando(こっこらんど)」で直売するだけでなく、茶卵と地元食材を使ったスイーツの製造・販売も行う「株式会社ぶらうん」の若き後継者、佐々木将司さんにお話をうかがってきました。
―お店に入ってまず目を引く「コロンブスの茶卵(ちゃまご)」はどのようにして生まれたのですか? 佐々木さん ―約20年前に、現社長である親父が、お客さんから「卵アレルギーの子でも食べられる卵つくってや」と言われたのが茶卵(ちゃまご)を開発するそもそものきっかけです。当社は卵の卸売を始めて約30年になりますが、卵の卸売販売は、形態が良くも悪くも自由で、自ら販路を獲得していかなければならないんです。ですので、不景気や飼料の高騰、大手養鶏場との競合などで非常に苦しい時期もありましたが、「うちのファン(お客様)を裏切らない卵づくりをする」、「食への使命感」を持って安全な食品を皆さんの食卓へ届けようという想いを持ってやってきています。

併せて、彼らの研究では、卵の品質に変化を与える要因として、動物性飼料の酸化をあげていたので、植物性のものだけを使うようにしたり、人間の体にも良いとされる茶葉の粉末を混ぜ込んだ飼料づくりなどに永田先生とともに挑戦していきました。しかし、飼料の配合が難しく、茶卵の開発までには5年、そこから改良を重ねて現在の技術を確立するのには相当長い時間を要しました。実際のところ、ここまでたどり着いたのは奇跡の部分もあると思います。
また、まだまだ販売は伸びていませんでしたが、今後の展開も考えて、取引先の飼料供給会社に「これから絶対ちゃんと消費して儲かるようにするき」と、お願いして、専用の飼料配合ラインも1つ構えてもらいました。
※永田農法:永田照喜治が創始した農法で、必要最小限の水と肥料で作物を育てることが特徴。衣料品店ユニクロなどを展開するファーストリテイリングの子会社エフアール・フーズがかつてこの農法による農作物を販売していたことなどが有名。 ―開発後の販路開拓にもいろいろと苦労があったのでは? 佐々木さん ―差別化を図った卵なので、市場価格ではなく固定価格で出させてもらっていますが、当初は「おいしいけど高いね」と、売れ行きも右肩上がりとは行きませんでした。ただ、購入いただいたお客様から少しずつ口コミで広がっていき、2008年の洞爺湖サミットで総料理長を務められた中村シェフに、同様の飼育法で生産された茶卵を採用いただいたことで知名度が上がりましたね。
その後、大きく変わったのは昨年の東日本大震災後で、消費者の食に対する安全意識が非常に高くなったことで、結果として関東での茶卵の販売数が伸びています。卵についての問い合わせで、「飼料の原料の産地はどこですか?」といった内容にまで及んだことがあったのには驚きました。
飼料価格が高騰して苦しい時期にも、基本原点である食に対する使命感を忘れずに、信頼性のあるおいしい商品をつくり続けるということを、続けてきたことが上手くいった理由だと思いますね。




また、使用する木材には、うちが所有する山の木を使いたいという思いもあったので、こだわってうちの木を作っています。お客様からは、よく「いい木の香りがするね」とおっしゃっていただいています。
パッケージなどのデザインは、ターゲットが女性をメインにした家族連れのお客様なので、女性に喜んでもらえるデザインを意識しています。このデザインに関してはまだまだです。また、商品名については私が考えました。シュークリームは「ちゃまごでしゅ」と名付けましたが、特に男性のお客様は「ちゃまご、でしゅ? 1つ」と恥ずかしそうにご注文されます(笑)
―服もおしゃれですね。 佐々木さん ―この服は、うちの女の子たちが考えて作ったのに乗っかっただけです(笑)




これも卵の生産と同じで、食に対するこだわりを持つ親父の姿勢に影響を受けていると思います。ずっと食べてくれるお客様は、味の良し悪し、変化に気づかれるので、良いものを作りつづけることに変わりはないですね。



大学も関西に出ていましたし、デザイン関係が好きだったこともあって、卒業後は高知市で本などのデザインの会社に就職していました。社会に出て、自分のやりたい事とのギャップを感じる中で、親父から「帰ってきて一緒に卵つくらんか」、「食に携わる仕事ってすごい楽しいぞ、やりがいがあるぞ」と言われ、周りの同年代の人たちも地元に戻って実家の農業や事業を継いでいるので、そういった人たちの話も聞くうちに「そしたら、やってみよか」という思いになってきました。
それから、小さい頃から背中を見てきた親父が、私が帰ってこなければ自分の代で終わらせようと考えていたこと、卵のファンである多くの近所の人から「将司はよ帰って来て継ぎや」と言ってもらったこともあって、自分には食を伝承していく義務があるなと使命感にかられましたね。


掲載日:2012年11月30日 取材者:C・M