自然、本、人とのつながりのなかで
福田安武さん
愛知県の山里で育つなかで、村人の持つ暮らしの知恵や技術を受け継ぎ、自然を先生として育ってきた青年が、大学進学を機に高知県にやってきました。その青年が、福田安武さんです。高知大学在籍中に「これ、いなかからのお裾分けです」という本を出版し、幼少期から生活の一部として行ってきた自然との関わり方が注目されています。高知に魅せられ、大学卒業後も高知に残り、自然との関わりの中で暮らしをたてていこうとしている福田安武さんにお話を伺ってきました。
-お住まいが山間部とは聞いていましたが、実際来てみると、ほんとに自然が豊かですね。 福田さん -そうですね、この場所は山に囲まれているので山菜も豊富ですし、家の前にはウナギやテナガエビなどが元気に過ごす川が流れていて、海までも10キロほどで着くような土地です。流れる季節ごとに、自然に遊んでもらうことがだいすきな身としては、嬉しくなってしまう場所ですね。
-今の福田さんの状況と、主に取り組んでいることを教えてください。 福田さん -大学院を卒業して、社会人として初めて迎える年です。周りの方に支えて頂きながら、ささやかではありますが無事に暮らしをたてることができています。普段の生活は、巡ってくる季節ごとに変化する自然との関わりの中での暮らしを楽しんでいます。僕の生業としては、いくつかにわかれています。主なものを挙げると、野遊び案内人としての仕事や、蜂獲り師としての仕事があります。野遊び案内は、幼い頃から村のおじいちゃんたちに教わったり、自分で野山を駆け回るうちに覚えた野遊びの知恵を活かして、“自然に遊んでもらう”という感覚を一緒に楽しむというものです。 これは、ただ自然を説明するのと違って、楽しいや嬉しいといった気持ちと共に美味しいがついてきます。みんなで工夫して、必要なだけ手に入れたその恵みを分かち合うこと。そこに、人としての根源的な喜びがあるように思います。具体的には、自然薯掘りをしたり、ウナギ釣りをしたり。あとは、テナガエビ捕りやズガニ捕り、アケビ採りや山菜採りなど、季節によっていろんな野遊びがあります。
二つ目の蜂獲り師という生業ですが、これは夏から秋にかけてスズメバチを追いかけて巣を捕獲するという山村の文化からきています。ハチといえば怖く危険な生きもので、駆除の対象として扱われることが多いため、この文化はあまり知られていません。僕が育った家庭には、幼い頃から当たり前のようにスズメバチの存在がありました。それは、ハチ追いを父がグループで行っていたためです。オオスズメバチという、日本で最も大きな体躯を備え、高い攻撃性と強い毒を持ったハチ。そんなハチの習性をうまく利用し、ハチの体に目印となるビニールを気づかれないように括りつけて、それを頼りに山中にある巣を探し出す。これは、時に刺されながらもハチとの間合いを身体で習得したことによって可能な、とても大胆かつ繊細な技から成る遊びです。餌場から巣へと餌を運ぶハチは、野原どころか川や大きな山の尾根さえも超え、遠ければ2キロ以上も離れた場所へと飛んでいくので、追いかける人間も必死です。そんな苦労をしてまでハチを追う理由には、空飛ぶハチを追いかける楽しさがあり。木に登ったり、苦労して山に分け入って狙った巣を発見したときの喜びがあり。防護服を着て巣を獲る時には、恐怖や緊張感による冷や汗や脂汗、また暑さで汗だくになります。それでも、今まで培ってきた経験や技術を駆使して、真剣にハチと向き合うことで得られる達成感があります。そうして得てきた巣の幼虫はこの地域ではとびっきりのご馳走として扱われ、それを家族で分かち合う喜びも、ハチを追う大切な理由としてあります。
僕は4歳頃にこの遊びを知り、そして強い興味を持ちました。成長する中で幾度も刺されて痛い目に遭いました。それでも、“こんな怖くて楽しい遊びはない”と思い、真剣に気持ちを注いで今までやり続けてきたことで、その技術を受け継ぐことができました。そしてこの“ハチ追い”を客観的な視点を入れて残したいという思いから、大学院ではスズメバチの捕獲と利用に関する論文を作成しました。その論文を作成する過程でスズメバチの幼虫を必要としている方と出会いました。それによって、ハチ追いによって得た幼虫の一部をその会社に卸すことができるようになり、自分の生活が生業の一つとなりました。
-愛知県出身とお聞きしましたが、名古屋周辺のような都市部ではなかったのですか? 福田さん -愛知のなかでもわりと山のほうなので、都市部からは離れていました。そんないなかで、勉強もスポーツもよくできる兄や姉の中で育ちましたが、自身としてはそこまで勉学やスポーツに身を入れることがありませんでした。当たり前ですが、時として成績というものを比べられ、そこに見える明らかな差を情けなく感じたりもしました。勉強もろくにしないくせに、“もっと褒められたいなぁ”なんて思ったりして。そんな悩みのなかでもがきながら、自分なりの存在価値を探していたような記憶があります。
-子ども心に抱いた存在価値とは? 福田さん -当時はそんな難しいことは分からなかったのですが、“家族における何らかの役割を担いたいなぁ”と思っていたのかな。褒められるってことは、自分の存在を認めてもらえるということ。褒められるためには、僕には何ができるんだろう。そんなことをぼんやりと考えた時に、自分の周りのおじいちゃんやおばあちゃんのいきいきした姿に気づいたのだと思います。自然薯を掘る、松茸を採る、ウナギを捕る。あの人はイノシシを獲る名人で、大根を漬けたらあの人に敵うもんがおらん、等々。 自分の周りにある自然から、必要な時に、必要なだけ、必要なものを手に入れてくる人たち。本人たちは楽しみながら、生活の一部として好きなことをしていて、それをお裾分けして頂いたものを家族で分けると、とても美味しくて笑顔が生まれる。自然と、自分もできるようになったら家族も喜ぶだろうなぁと思ったんじゃないかな。それが原動力となって、村のおじいちゃん、おばあちゃんの技術をなんとかして自分のものにしようと食らいついていって、自然と技術が磨かれていったのだと思います。
-高知は山も豊かですが、海のイメージも強いと思います。なぜ高知を選ばれたのですか? 福田さん -高知に来ることを決める前の話になりますが、中学くらいから、海に対する憧れは自分の中で膨らんできていて、将来の進路として、山師か漁師かで迷ってたんです。高校の時、一人の伊豆の漁師さんの書いた本を読んで、その生き様に共鳴して連絡をとりました。あなたに会いたいんですって。
-本を読んで共鳴して、思い立って即座に行動したんですね。 福田さん -そうですね。今思うと若僧の短絡的な考えだったのですが、この人の下で漁師になれたら、いい漁師になれるなって思いました。ただ、会って話をすると、「ちょっと世間を知らなさすぎるから、親に頼んで大学に行かせてもらって、その間にいろんな人に会って、いろんな人の生き方を見て、その上で自分の生き方を定めろ。4年たった時にそれでも漁師になりたかったら、俺が一から育ててやる」 と言って下さいました。そこからちゃんと勉強を始めたんです。どうせ漁業で勉強するんだったら、これからに活かせる事をやりたいなと思って探していました。そして、高知大学に栽培漁業という学科があることを知り、高知に辿りつきました。
-自然な流れで高知に来て、自分が学びたいと思うことを学んで、住みたいと思ったところに住んで。自分の中では、ある程度やりたい方向に進んで来たんですね。 福田さん -ほんとにそうなんです。なれていたかどうかは別として、あのまま弟子入りさせて頂いていたら、僕は漁師の世界しか知らなかった。その点では、伊豆の漁師さんは先見の明があったというか、見抜いて下さっていたわけですね。僕のいろんな野遊びの話しを聞くうちに、「こいつはこのまま漁師として海だけになったらもったいねぇ。これだけ山と川のことを経験していて、伸びとるのに。もっと自分の好きなことを一生懸命やって、それを仕事にしている人もいるから、そういう生き方をたくさん見て、進む道を決めたらいいと思っていた」という話をされたのが、僕が大学4年終わって会いに行った時でした。僕自身が大学での生活の中で、海だけでなく自然との関わりの中で暮らせることが何より好きだと知ったことなど、今後を含めた思いをお伝えしたら、すごく喜んでくれて嬉しかったのを覚えています。
-大学時代の研究はどんな内容だったんですか? 福田さん -栽培漁業の学生の時は単身でフィリピンの最北端のバタン島に赴き、手漕ぎの木造船でシイラという魚を一本釣りする伝統漁法を調査していました。大学院では、自分の一番興味のあるスズメバチの捕獲と利用の実態を記録しました。調査の過程で、特に文化が残っている愛知県の周辺地域や九州を旅しました。その中で名人と言われる方々を訪ね歩いて聞き取りさせて頂いたのですが、ハチ追いをする方の多くがイノシシ猟も行っていました。猟に関しても強い興味があったので、同時に記録を残していきました。旅の中では、自分の好きなことを生業にして暮らしをたてている人達に会うことができました。
-まさに実学ですね。研究の傍らで「これ、いなかからのお裾分けです」を書き上げることになった経緯をお聞かせください。 福田さん -大学一年の時、“森との共生を考える”という講義を受けたことをきっかけにすごく慕っている先生から、「君の経験はすごく貴重だよ。君みたいな、いなかでの実体験を持ちながらそれを磨き続けてきた若者には今まで会ったことがない。福田くんのもっている知識や経験をもっと知りたいから、それを文章にまとめてみてくれないかな。」 と言われました。書き始めようと思ったのですが、最初は自分が普段からやっていることが価値のあることだと思えなかったし、どう書けばいいかもわからずにいたのでそのままにしていました。でも、顔を合わせる度に“福田くーん、ちっとは進んだかー?”と笑顔で尋ねる先生。それが5度も6度も続くと、“あ、先生は本気なんだな。”と気づき、僕も先生の期待に応えたくなりました。そうして経験を書き始め、ことばを連ねるうちにその事柄に関連したいろんな話を思いだしてきて、15万字を超える分厚いレポートができました。その原稿を渡したところ、最初は分量の多さに驚いた先生も読み進めるうちに、“こんな若者がいたのか!これは周りの人にもっと知ってもらいたい。配りたい”という話になりました。 そして、その原稿を先生の知人の出版社に持ち込んだところ、編集長の方がえらく気に入って下さって、原稿の一部を編集することで、本としてこの世に生み出して頂くことになりました。
-本のタイトルは福田さんが決めたのですか? 福田さん -いいえ、違います。最初は、「海山川を自然児が行く!」とか、「平成田舎育ち」とかの案を出して頂きました(笑)が、これは僕が大事にしている生き方や想いと異なるものを感じてしっくりはこないままでいました。でも、期限が目前に迫っていることをわかっていたので焦ってもいました。そんなときに、その編集長と共に先ほどの先生のもとを訪れ、一番最初の書き出しを指して、“これがまさに福田くんじゃないかな”と笑顔で言って頂いた途端に、すっと自分の中でも腑に落ちたというか、そのタイトル案が気に入りました。タイトルの件もそうですが、先生をはじめ、こうして思い返すだけでもいろんな方に育てて頂いていることを感じます。本当にそれはありがたいことで。これでいいのかな、と時に迷いながらも好きだから続けてきた野遊び。それが、人との出会いの中で心から認めて頂く機会に恵まれたりして、だんだんと“僕はこれでいいのかもしれないな”って思えるようになってきました。
-いわゆる「よそ者」から見て、高知の魅力とは? 福田さん -海と山と川が揃っていて、かつそこに元気に生き物たちが元気に暮らしている高知。そんな高知でも愛知と変わらず、自然との関わりのなかで、生活の一部として野遊びを楽しみながらしている方たちがいて。その方たちと一緒に自然の中で時間を過ごすことで、新たな知恵が自分の引き出しに増えていくことをとても嬉しく思います。同時に、その知恵を活かして仲間に喜んでもらえたりする日々はやっぱり楽しいです。そして、高知に来てからの8年で出会えた人たちのことも大きいですね。自分の好きなことを一生懸命やって、それで暮らしをたてている。そのいきいきとした姿に感じるところは多かったです。もちろん汗を流した結果で成り立つのだけど、ただ稼ぎに追われるのでなく、暮らしの中で充足感を得ながら生きている人に出会えたことは大きかったです。 いまは、自らの意思でそういった生き方を選び、少しずつ生業をつくりながらの段階です。そんな中でも、僕と出会った方が自然に遊んでもらう楽しさを知ってくれたり、一緒に過ごした時間をきっかけに何かを感じて頂けることがあるのはとても嬉しく思います。
掲載日:2013年3月18日 取材者:A・K