想いを形に、志を行動に!
眞鍋邦大さん 株式会社459

瀬戸内海に浮かぶ2番目に大きな島である小豆島は、風光明媚な自然とヨーロッパの地中海によく似た温暖な気候に恵まれ、日本のオリーブ栽培発祥の地としても知られています。また、映画『二十四の瞳』を始めとする数々の映画ロケ地、日本三大渓谷の一つである「寒霞渓」、「小豆島八十八ヶ所霊場」、18世紀頃から伝承される「農村歌舞伎舞台」など、数多くの観光名所があるほか、約400年の伝統を持つ醤油や手延べ素麺の産地としても有名です。
この自然豊かな小豆島に移住し、地域おこしを通じて、瀬戸内海の島々をはじめ、四国、地方の魅力を全国に発信し、「これまでにあるものを、これまでにない手法で」伝え、「シマとマチとトカイをつなぐ」ことに熱い想いで取り組んでいる、株式会社459の代表取締役社長 眞鍋邦大さんにお話を伺いました。

-地元の香川県に戻ってくることになったきっかけを教えてもらえますか。 眞鍋さん 東京で会社を辞めた後、野球留学のために、渡米の準備で1ヶ月ほど実家のある香川県に戻る機会があった。これまでは、実家は「泊まる」場所だったのが、実際に自分が「暮らしてみる」と、都会より地方の人の方が笑顔は多いし、個々人でみたら地方の人の生活の方が豊かなんじゃないかと。世の中的には「地方は疲弊している、地方はダメだ」とか言われていて、経済力とかGDPでいうとなんとなく都会が回っているようにみえていたけど、都会の人は、毎日満員電車に揺られて何時間も通勤に費やし、表情もしかめっ面ばかり。一方で、地方の人は、30分以上通勤に時間を掛ける人はほとんどいない。地方では可処分所得は少ないかもしれないが、可処分時間が多く、みんなが寄り集まって談話を楽しむとか、新鮮な野菜が食べられるとか、なんかそこに地方の質的な豊かさみたいなものを感じた。地方が疲弊しているというのは嘘だなと思ったのが最初のきっかけだった。

帰国後もしばらくは東京で働いていたが、東日本大震災を境にして、従来の貨幣優先から安心・安全を優先する価値観の変化があったことが、次のきっかけになった。これからは地方の時代が来る、地方志向が高まると直感した。
そのような中で課題先進地域とも言われる、瀬戸内海や四国を舞台にして、地域の人たちがその土地に何か誇りを持てるようにできないか、そのためのビジネスモデルを考えていこうと、株式会社459を創業し、地域おこしを生業にしていくことを決めたんです。

-地元の高松に戻るのではなく、なぜ小豆島への移住を決めたんですか。 眞鍋さん どうせ会社を立ち上げてやるなら象徴的な存在に切り込んでいくのが一番分かりやすいのではと思った。香川と言えば「うどん」がすでに有名で、行政も『うどん県』としてPRしていた。次に象徴的なものを考えたら瀬戸内海の島々だった。中でも小豆島は、瀬戸内海の島々の中で、一番存在感があって、オリーブの島として有名だけど、そのほかに約400年の歴史を持つ醤油や素麺もある。佃煮もあって、農村歌舞伎や島遍路などの伝統文化もある。当然、海や山といった自然も豊かで、売り出せる有力なコンテンツがたくさんあるのに、まだまだ一部の人にしか知られていない。もしかしたら僕にできることがあるんじゃないかと考えた。
その一方で、小豆島は、香川県の中でも少子・高齢化などが進んでいて、社会問題の縮図といえる課題先進地域であった。この二面性が、言葉は間違っているかもしれないが、僕にとっては魅力的というか、やりがいがあると感じた。
でも、島で地域おこしをしたいからと言って、いきなりそこに土足で踏み込むべきではないと。小豆島の色々な人たちとのつながりの中で、まず来ることの許しを得たかった。世の中的にはそんなことは必要ないのかもしれない。でも、僕の中ではそう思った。だからこそ、働きながら定期的に島に通い続けた。そうしたつながりの中で、島の人たちとの信頼関係もでき、縁があって移住することが決まったんです。

-今や眞鍋さんの代名詞である「シマポン」ことポン眞鍋さんが、地域おこしでポン菓子の販売をはじめた理由は何ですか。 眞鍋さん 僕は、「これまでにあるものを、これまでにない手法で」とずっと言ってきている。無いものねだりをしてもしょうがないし、そこにある地域の資源をいかに使って見せ方を変えて伝えていくか、ということを常々考えていた。だから、ポン菓子の販売も現代風にアレンジしてみた。
ポン菓子って、今まではテキ屋のオッチャンがスーパーの店頭で売っているイメージしか無かったが、それをオシャレにして売ってみたらどうかと考えた。また、お米に砂糖をまぶしたお菓子というイメージしかなかったが、地域にある資源を使えば何でもポン菓子にできることから、小豆島の素麺、豊島の大豆、女木島の落花生や、伊吹島のイリコなど、島の食材を色々と使ってポン菓子にしてマルシェで売ってみた。

すると、こんなものが地域にあるんだとか、食材そのものの旨さを知ってもらうきっかけにも繋がっていった。オシャレにして売るということは結構重要で、フェーズを変えるというか、エンターテイメント性を高めた。例えば、ポン菓子の販売で図書館の式典や神社の祭典に呼んでもらえるようになって、最終的には結婚式にも呼んでもらえた。エンターテイメント性を高めることで、新しい価値が生まれたんだと思う。僕はポン菓子を売りたかったわけではない、あくまで地域の魅力を知ってもらうための一つのツールとして取り組んできたんです。




-SNSなど、コミュニケーションツールを積極的に活用されていますね。 眞鍋さん Facebookが無ければ今の僕はなかったと思う。「自分がいかにメディアになるか」ということを考えて、積極的にSNSを活用し情報発信をしている。ハッキリ言ってビジネスは何でも良かった。「ポンちゃんがやるから、行ってみよう」って、思ってもらえるかが重要なんです。
ソーシャルメディアの発達は、ローカル、パーソナル、スモールがメディアになれる時代をつくってくれたと思う。小豆島の詳細な情報だったら、僕もメディアになれるようになった。常に情報を発信し続けていくっていうのは本当に大変なことだけど、それが仕事だと思っているし、たくさんの方と知り合うことができ、仲間も増えて、逆にいろんな情報が入ってくるようになったんです。

-これまでに島の食材を使った「ポン菓子」やギフトカードの商品を申し込むと旬の時期に生産者から直接送られてくる「小豆島のギフト」など、様々な事業を手がけられていますが、新たな事業として始めた「四国食べる通信」の今後の展開について教えてもらえますか。 眞鍋さん 「四国食べる通信」に関しては、ある程度の売上げを上げることや雇用を生み出すことも考えていきたいと思っている。でも、これ自体は大量生産・大量消費のモデルではない。これからは、もともとやりたかった「食べる商店」、「食べる農園」、「食べる食堂」、「食べる工房や酒場」などの横展開を考えている。また、将来的には「四国食べる通信」のオリジナルブランドをメーカーとして作っていきたい。
あとはスクールみたいなもの、食育なのか大人向けの料理教室でもいいかも知れない。食を通じて学びの場を提供していきたい。これらを形にしようと思うと本当に時間が無いんです。

-和食がブームになっていますが、食を通じて海外にも伝えていきたいという想いはありますか。 眞鍋さん 「和食」が世界文化遺産になって盛り上がっているが、本当の「和食」とは何かって聞かれて、きちんと答えられる人は少ないと思う。四季折々の食材を使って、煮る、炊くなどの色々な技法があるというのが「和食」の特徴だって言われているが、それって分かりにくいし、海外の人には伝わらない。僕が聞かれたら、醤油や味噌とかダシの文化、それが「和食」だと答えることにしている。それが一番分かりやすいし、瀬戸内海というのは、まさにその醤油や味噌とかダシの文化の担い手なんだと。
その一方で、江戸時代から作られてきた木桶による醤油などの伝統的な発酵調味料が消えゆく状況になっている。もしそれらが無くなってしまって、人工的に作られた醤油とか味噌を使った料理が、世界的に広まったところで、それが本当に「和食」と言えるのかなと。僕は、醤油や味噌とかダシの文化の担い手である瀬戸内海というのは、「和食」というものを残していくためにもとても重要な存在で、そこを繋いでいかないといけないし、そうしたホンモノを世界へ発信していくことに意味があると思っている。だからこそ、僕はミラノ万博に行きたいし、そこで「和食」の源となる、瀬戸内海が生んだ伝統的な発酵調味料が奏でるホンモノの味を伝えたいと思っています。

-最後に今後の想いを。 眞鍋さん 僕は架け橋だと思っている。少なくとも地方と都会、若者とシニア、企業と学生の3つの架け橋にはなれると思っている。寺子屋教室や四国若者1000人会議もその一つ。これからは、四国食べる通信の活動を広げることを通じて、本当の意味で生産者(地方)と消費者(都会)をつないでいきたい。


掲載日:2015年04月22日 取材者:H・Y