縁でつむぐ物語
友廣裕一さん つむぎや http://tumugiya.org
大学卒業後、自分の足で農村漁村の「現場」にふれるため、人の縁だけをたどって全国70カ所以上の土地を巡る旅「ムラアカリをゆく」を敢行した友廣裕一さん。その経験を活かし、日本全国を駆け巡り、人と地域をつなぐ仕事に取り組んでこられました。現在は、一般社団法人つむぎやの代表として、宮城県石巻市でコミュニティの再生や地域の未利用資源を活用したものづくりで震災復興支援に取り組んでいます。友廣さんは、平成23年1月と平成24年6月に高知県で開催された、四国で暮らしと仕事を考えるフォーラム「高知にかぁらん」の中心メンバーとして、その企画・運営に関わるなど、四国とも浅からぬ縁を持っています。団体のなまえ(つむぎや)が示す、人と人、人と地域の関係性を紡ぐことを日々実践される友廣さんにその想いと、四国との縁、その魅力などについてお話をうかがってきました。―「ムラアカリをゆく」の旅では、ヒッチハイクもしながら全国を廻られたとのことですが、小さい頃から活発な一面があったのですか? 友廣さん ―活発かはわからないですけど、少し変わっている子供だったかもしれないです。小学校の卒業アルバムに将来の夢を「自由人」って書いてるんですよ。友達はサラリーマンとか、パイロットとか書いてるのに、僕だけ自由な大人って(笑)きっと、縛られない生き方をしたかったんでしょうね。周りが将来の進路を決めていく、大学4年生の時も就職活動はしなかったですし・・・ ―就職活動をしなかったのは、既にやりたいことがあったからですか? 友廣さん ―大学生の頃は自分のエネルギーを注ぐべきものに出合いたくて、うろうろしていましたね。メディア系のサークルで大学の情報を出すポータルサイトやフリーペーパーを作ったり、人をつなぐいろいろなイベントをやったり、先輩で会社を作るという人がいて、そのお手伝いをさせてもらったりもしました。祖父も親父も経営者だったので、元々ビジネスに興味があったんです。大学では経営学を勉強したんですが、机上の空論ではなく現場に行きたいといつも思っていました。ですから、先輩が起業するという話を聞いたときは雑用係でいいから手伝わせてくださいとお願いして入らせてもらいました。当時はITバブルだったので、学生でも起業している人が増えてきた時期で。小さな事業を企画させてもらったりという貴重な経験もさせてもらいました。用意された仕組みの中で踊るんじゃなくて、その仕組みを誰がどうやって作って、いかに動かしているのかを知りたいという欲求が強かったのでこの経験は大きかったです。 ―ビジネスの世界から「地域」に興味をもつようになったきっかけは。 友廣さん ―ビジネスの世界に関わっていた時は優秀な人に囲まれ、スピード感もあってすごく勉強になりました。でも、何か違う、僕の人生を使っていくのはこっちの方向じゃないのかもしれないという感覚もありました。ただ、自分の足で生きていきたいという思いは常にあり、いかに自分で自分の人生の主導権を掴み続けられるかということには、こだわっていました。そういう意味では、自由な大人になりたかった小学生の頃から変わっていないかもしれません(笑)。自分はどうやって生きていくのかと思い悩んでいた時に、「持続可能性」という言葉にピンときて、いろいろ探っている時に、大学で「持続可能な社会と市民の役割」という授業を見つけて、「これや!」と思いました。 ―というのも、その少し前に社会起業家という言葉を初めて知って、自分のエゴではなくて誰かのためになることを仕事にできたらいいなと思っていたんです。でも、社会起業家という言葉は特別な人たちの概念のような気がして、もっと当たり前な感じの言葉がないかなと思っていた時に、「持続可能性」という言葉に出会いました。まず、人間自身がより長く生き永らえたいという欲があって、そのために環境をよくする、社会をよくする、ということが出てくる。綺麗ごとじゃなくて、思考のスパンを長くして、子孫繁栄という人間のエゴを深めていくと、Sustainabilityという観点で環境を整える、いろんな事象を良くしていくことにつながるんだと行き着いて、自分の中でつかえていた何かがストンと落ちました。そして、当時早稲田大学でそのキーワードが使われていた唯一の授業が「持続可能な社会と市民の役割」だったんです。そして授業の一貫で太平洋に浮かぶミクロネシア連邦という国のヤップ島に行ったことが今の自分につながっていく一つのきっかけになりました。 ―ヤップ島ってどんな島なんですか? 友廣さん ―ミクロネシア連邦の西端にある島で、そこではまだ石のお金に貨幣価値があるんです。伝統的な暮らしを大切にしていて、自給自足ができる知恵を持っている人達が住んでいます。そこで12日間くらい生活したんですが、豊かさについてすごく考えさせられました。出身は大阪で、郊外の住宅地に住んで、基本的にはお金を介在させないと食べ物すら得られない、お金の量と生活の質が比例している社会で生きてきました。しかしその体験を通じて、自分が当たり前と思っていたものが実は全然絶対じゃないんだって気づかされることがあまりにも多かった。
時間の概念なんかも、なにごとも早く効率的にこなすことがいいことだ、という風に刷り込まれていますよね。それが、ヤップ島に滞在した日々では、時計を1回も見なかったんですよ。 ―ヤップ島での経験が、約半年間をかけて地域を巡った「ムラアカリをゆく」の旅につながっていくんでしょうか。 友廣さん ―そうですね。他にも、新潟のある集落を何度も訪ねさせてもらう機会があって、次第に地域とつながる仕事をしたいと思うようになっていきました。頭でビジネスプランみたいなことを色々と考えていた時、ある先輩に「地域をつなぐこんなことをやりたいと思っています。」って頭の中だけの話をしたら、「ぜんぜん響いてこないんだよねー。おれだったら、明日から日本中歩きまわるけどね。」って言われたんです。その時「ハッ」としました。もう、その日家に帰ってすぐにカレンダーに丸印をつけて、この日に出ると決めました。腹決めができた途端に色々なことが進んで、あんまり事前準備をしない方が面白い旅ができそうだし、できるだけお金を使わないようにしよう、情報を検索しないようにしよう、と自分のルールが決まっていきました。 ―旅の前後で友廣さん自身に変化はありましたか? 友廣さん ―最初はどこかで優等生的なところがあって、これは限界集落の日常を発信するプロジェクトですって言っていたんですが、集落の規模とか高齢化率とかいう情報をネットで引っ張ってきて、だからどうだってことをブログに書いても何の意味もないじゃないですか。しっかりと学ばせてもらうことができれば、その後の人生で何かしら伝えることもできる。だからその瞬間にあるインプットの機会を削ってまでアウトプットする必要は何もない。所詮ただの旅なんだということに気づいて、そこで出会った人との関係性に全力投球しようと思い直しました。友廣裕一っていうやつと会って良かったなって思ってもらえるような人間であり続けることが大事なんだと思ったんです。そして次第に僕のことを色んな人が紹介してくれるようになり、「あっちの○○さんのとこ行って来い」と電話番号だけ渡されるなんていうことが増えて、どんどんつながりが広がっていきました。気がついたら、日本全国いくらでも訪ねさせてもらう場所に事欠かない感じにまでなっていたんです。 ―そして四国へ。 友廣さん ―はい。大学の先輩など、四国でも縁を通じてたくさんの人と知り合い、様々な地域に行きました。高知を案内してもらった友人からの紹介で福田安武さんとも知り合ったんですが、その出会いから、福ちゃん(福田安武さん)と一緒にツアーを開催するようになりました。僕が参加者を東京から高知に連れて行って、福ちゃんが山の中をガイドするという形で、一年に十回近くやりました。他にも旅の中では、徳島県の神山町や上勝町、愛媛県の宇和島市や双海町 (現:伊予市) などたくさんの場所にお邪魔しました。 ―本当に人が縁で活動範囲が広がっていったんですね。 友廣さん ―そうですね。ムラアカリの旅を終えた後でも、そのときの縁でつながっている地域の方はたくさんいます。香川県の小豆島や徳島県の神山町には僕が旅した時の体験談を話しに行かせてもらったりもしました。神山町では、おじいちゃんおばあちゃんが40人くらい集まってすごく真剣に話を聞いてくれて、次第に盛り上がって、こんなことやりたいあんなことやりたいって言ってくれて。たとえば中山間地の他の地域の取り組みのことって、意外と知るすべがないんですよね。参考になりそうな事例をお伝えすると、想像力がかきたてられてくるんです。例えば、他の棚田の地域ではオーナー制でフキの栽培をやっていたと話すと、それならうちでもできるとか、地域の特性を活かしたツアーをしてる人がいたって言ったら、うちでもイノシシ捕ってるしできるかもしれないぞという風に、どんどん前向きな話が出てくるんです。伝えることで少しでも刺激になるヒントを見つけてもらえたらいいなと思っています。 ―自分の足、目、耳で稼いだ情報って強いですね。友廣さんが感じた四国の魅力って何でしょうか。 友廣さん ―四国に特化したものではないかも知れませんが、やはり、各地域の魅力は地域にいる人そのものだと思います。人は大事ですよね。みんなで何かしたいと思えるような人が集まっているというのは、なにより素敵なことだと思います。僕は高知で福ちゃんツアーをやったことでいつの間にか面白い人たちとつながりができ、そうした仲間と一緒に、高知の自然や暮らしに触れながら、地域や地域の中にいる自分を体感する「高知にかぁらん」というプロジェクトを2回開催しました。やりたいことをやれる人たちで、役割分担して形にしていくというのは本当に面白くて、すごい可能性を秘めている気がします。業種を超えた人のつながりが出来ることは、地域の大きな財産だと思います。 ―四国は全国的に見ても限界集落が多かったり、高齢化率がどこよりも早く進んでいたり、客観的にみると色んな問題を抱えている地域と言われますが、住んでる人は実はそんな風に思っていない部分もあるんですよね。 友廣さん ―地域ならではの良さって決して数量的に測れるものではないので、極端に言えば、外の人に伝えるための情報なんていらない気がします。そこにいる人の笑顔、そこにいる人の後ろ姿が物語るもんですよね。それで十分、伝えようとしなくても伝わるもんだと思います。それを無理に相対化しちゃったりするから、ネガティブな要素が目立ってくる。実際四国は、都会の人から見たら、すごくよく見えていると思います。四国は四国でいいんじゃない?くらいの良い意味での割り切りも大事かも知れませんね。経済競争に勝つことだけをゴールにしちゃったら、みんなが幸せになれることに限界があるじゃないですか。だれかが勝てば、だれかが負けるので。でも幸せの形って本来決まっているものじゃなくて、たとえばみんなの笑顔を増やす方法は他にもたくさんあると思っています。 ―友廣さんの笑顔の増やし方は、、、 友廣さん ―僕は、各地域の人たちからすると地元の人間では無いんですが、地域同士や人同士をつなげる役割の一端を担っていきたいですね。今現在は東北で地域のものづくりの現場に関わらせていただいていますが、僕自身、本当の意味での人のつながりの中にいたいから何かを一緒にやるのかもしれません。もっとみんなのことを知りたい、同じ時間を共有したいと思うから、また一緒にやろうって。これからも、これまでにいただいた旅のつながりや縁の中で、自分のできることで小さく貢献するような生き方ができればと思っています。
掲載日:2013年7月12日 取材者:I・M